深夜鈍行はチンタラ走る


荷物を抱えて乗り込んだバスの車内はひどいあり様だった。

さっきまで乗っていたエアコンバスとは大違いで、完全なオンボロローカルバスは座席も床も木である。しかし、ひどいあり様というのはバスのことではなく、弱々しく光る薄暗い橙色の電灯に照らし出された人たちの姿だった。程度の差こそあれ、だれもが血で顔や衣服が汚れていた。一様にぐったりと疲れた様子だ。ポーランドの3人組もいた。

かなりの重症のように見える。彼らは事故を起こしたバスの最後部に座っていた。男の1人は全身血だるまといった状態で、首をがくんと下げ床に両足を伸ばしてべたっと座りこんでいる。ほとんど意識がないようだ。彼らの痛々しい姿を見ながら、自分はラッキーだったのだなと少し安堵した。


 小さな診療所のようなところに着いたのは朝の6時前だった。空がうっすらと白みはじめている。クエッタの街に戻る途中にあるらしい村の、その建物は木造のとても質素なつくりで、床はコンクリートがむき出し砂だらけだった。診察ベッドは1つしかないらしく、みな適当にそのへんの地べたに寝かされている。見たことはないが、野戦病院とはこういうものなのかと想像した。

1時間ほど待たされ、自分の治療の番が回ってきた。外国人だからか、ありがたいことに診察ベッドに寝かせてくれた。現地人の多くは砂でザラザラしたコンクリートの床でそのまま処置を受けている。


ヒゲ面の中年の医者はどこが痛むのか、と英語で問うた。言葉が通じることに心底ホッとする。頭と右肩が痛いと伝えた。当時、僕は散髪が面倒だからという理由で肩まで髪を伸ばしていたのだが、医者は傷口を確認すると、その部分の髪をハサミでザクザクと無造作に切った。そして、ピンセットでつまんだ脱脂綿を消毒液に浸すと傷口を拭いた。傷がしみないようにそっと丁寧に慎重に、なんて配慮はぜんぜんなく、おいそれはちょっと乱暴すぎるだろうと文句のひとつも言いたくなるほど雑だった。肩も同じ扱いだった。


消毒を終えると、医者はおもむろに縫い始めようとした。とても自然だった。あたかもこの診療所で決められた正式な手順のようにスムーズな動作だったので、そのまま身をゆだねそうになったが、ふと我に返り僕は医者を手で制止した。ウェイト、ウェイト、ウェイト、プリーズ! ま、ま、ま、麻酔は? 麻酔はどうしたの? 

そう質しかけて、けれども、周りを見て言葉を飲み込んだ。砂まみれの地べたに寝かされたまま、傷口を縫われている現地の人たちも麻酔注射など受けている様子はない。みな顔をゆがめながら耐えている。愚問であることは明白だった。今の事態は、この小さな医療施設の能力をあらゆる面で超越していた。医者も看護師も薬もなにもかもが圧倒的に不足していた。

たの子
ライター
1969年京都生まれ、宮崎育ち。男。
学生時代からアジアを中心に海外をブラブラし、
人生もブラついたままとりあえず酒を飲む毎日。

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