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旅人文化振興会メンバーのトシリンの海外協力隊時代(’86〜’88)の中米の旅です。
この旅行記風文章は、トシリンが商社員として台湾・中国など頻繁に出張生活を繰り返していた頃 海外での活躍を目指しはじめていた同僚の社員にあてて書いたものです。

世界が君を待っている

第一夜 3日目「AMIGO!!の国メキシコ編」

スペイン語では正しくはメヒコと発音するのだよ。

グアテマラ・シティーから飛行機で約3時間、太陽とマリアッチの国メヒコに到着です。 コスタリカはもちろんグァテマラよりもメヒコはさらに北ですが、風景や空気が確かに抜ける ように明るいです。決して気分的なもんじゃなくて違うんです。何だろう?湿度のせいかな。 中米の国々は湿度が高く土地の緑も多いですが、メヒコは土地が枯れてて乾いてます。空も しまりがいいというか、景色もシャープです。

到着したメキシコ・シティー(スペイン語ではCiudad Mexico(シウダー・メヒコ)) は標高なんと2,000mにある首都です。

メキシコシティ

一人旅とは言えメヒコには土地鑑が有るので気楽な旅になりそうで浮かれてました。 日本から派遣されてコスタリカに着任する前に2ヶ月ほど語学研修をメヒコでしたのです。 楽しかったですよー。あの2ヶ月はただただ楽しかった。夢のような日々と言うのでしょうか。 生きるってこうゆう事言うんだと初めて感じた日々でした。

メヒコでの楽しかった日々

それまでは、子供の頃からの頭でっかちで「人間はなんで生まれてくるのか?」、「何をしなく ちゃいけないのか?」とか、特に中学、高校時代は、激しく遊びながらも、やっぱり激しく悩んで おりました。そこから比較的安易にヒョロヒョロっと出てきた結論が青年海外協力隊だった 訳です。今考えれば笑っちゃいますけど、結果としては大正解でした。

まずは、その楽しい日々を過ごした地クエルナバカを訪問します。 メキシコシティーからバスで約3時間西へ下った所にある街です。標高が下がった分、夜 暖かく、昼の暑さも程々なので年間通じて春のような花にあふれた街です。

私がホームステイしていた家は、なにやってるか知りませんが小金持ちの家で、 プールなどある結構なお屋敷でした連絡などしないでいきなり門のベルを押しましたが、出てきたら いきなり大歓迎。良く来た良く来たで、この辺がメヒカーノの良い所でないでしょうか。

ホテルの心配する暇もなく部屋をあてがわれてもう自分の家に帰ったようなものです。 一度何かの縁で触れ合うともう家族のようになれたような気になるのが、メヒカーノとの付き合いです。 ホントのところはどうか窺い知る事は出来ませんが、絶対に他人は気付きません。 僕は本気で家族のように思ってくれていたと今でも思っています。

クエルナバカの豪邸 クエルナバカの思い出

この家で一番えらいのは奥さんのLupita(Guadalupe)さんで、これが 「奥様は魔女」のサマンサのおかあさんにそっくり(嘘でない、うりふたつ)の50過ぎの オバサンです。 最初にホームステイした時はもろ異文化の象徴みたいな顔しているから、 どーしよーかと思いましたが、何の事はない気のいいオバサンでした。

このサマンサのおかあさんは、朝からこってり化粧してどこかへ出かけたりするおよそ生活感の無い人でした が、メヒカーナとしてはかなりの知性派で抽象的な人生論みたいな話もも出来る人でした。一年あまりで スペイン語もだいぶ上達した私は、当時付き合ってた今の奥さんの事など相談したりしました。

この家でもう一人忘れられないのは、お手伝いのマルガリータと言う子で当時で多分 14-15才だったと思います。メヒコもインディオの多い国で国民の6割以上が貧困層= インディオという図式になり、街の郊外にスラムを形成したりしてます。

中産階級とこの貧困層(インディオ)の間には、ドッカーンと普通では登れない崖があり、 まったく別の世界を形作っています。そこから這い上がるには、サッカー選手やボクサーになるか、 宝くじでも当てるしかないのです。

メヒコの識字率は中米でも低い方ではないでしょうか。 えらく低い数字を聞いた記憶があります。そんな訳で街の普通の家では大抵通いか住み込みのインディオ の女の子のお手伝いさんがいます。私が居た家には、裏庭に女中小屋があり(すごく小さい の、ベットとトイレとシャワーぐらいで、ぎりぎり2畳分ぐらいかな)住み込みでマルガリータ は働いていました。

良く働く子で洗濯、掃除、買い物一日中何かしていました。 顔はインディオ顔で肌も褐色なので、どちらかと言うとモンゴロイド系の僕らの仲間というかんじで 親しみやすかったです。でも同じ国の中で肌や顔つきの違いで生活のレベルが明らかに違ってくる社会と言う のはあまり気持ちの良いものではありません。メヒカーノの場合それを突き抜けてしまって いる明るさが救いになっているのですが、日本人のようなウエットな人種には耐えられないん じゃないかな。

ある時、サマンサのおかあさんのルピータおばさんに、マルガリータのように14−15才ぐらいで 働かなくちゃいけないなんてかわいそうなんじゃないかと聞いてみた事が有ります。 その時は「いや彼女は幸せなんだ」と言われた。 まずウチで働いている間は、オバサンが小学校に通わせているそうで、 もう少しがんばれば小学校を終えられるのよなんですと。

あちらは留年や休学、行かない事も当たり前ですから年を聞いても学年が分からない事が 多いのよ。ちゃんと屋根と個室と灯りと食事のある生活も出来るから恵まれているんですと。

実際彼女の家族は郊外の電気も水道も無いスラムに住んでいて、週末には一日だけ家に帰って いました。しかし、おばさんのはなしでは、大家族で大変らしいとの事で、いつも食べ物を持たせたりしてました。 そうして仕事が嫌になって辞めてしまったり、お金や物に手を付けてしまって働けなくなってしまう事を彼女の 為に心配しているのでした。

マルガリータもいい子で、ルピータおばさんもいい人で、どちらもとっても明るく暮らしているのだけど、 僕の部屋から見える裏庭の女中部屋の灯りを見る度これはオカシイ、どこか間違ってると思わざるを得ないのです。

明るさの中に、そうゆうヨーロッパのような歴史の薄暗がりを隠している所もあるのです。 問題を解決できる力の無い事が分かりすぎてて哀しかったなーあの頃は。 なんか違うと思っても、どう説明していいかも、どうしたらいいかも分からず、 どうにもならないことって有るんだと認めたくないのに、認めざるを得ない。

ほんとはなんとかなるわとか、なんとかしようと思いつづける気持ちが何かを変える力なんだよね。 そうゆう気持ちを持てるようになるまで随分時間を費やしてしまったよなー。

この後旅は、再びメキシコシティーからグアダラハラそしてグアナファトへと続きます。 この短い文章を書くのに1ヶ月かかってしまいました。

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